つちや(仮)

大体当クールドラマ感想。たまに漫画、たまに旅、たまに雑談。

俺のスカート、どこ行った?第1話感想〜顔がいい!以上!〜

主観による評価

★★☆☆☆

 

顔のいい男の子を愛でる私「★★★★★だな」

ドラマ好きな私「★☆☆☆☆だな」

 

プラスポイント

  • 生徒の顔がキラキラしている
  • 道枝くんがかわいい
  • 道枝くんが好きだ

マイナスポイント

  • 生意気な子供達の現実を描きたいのか、表面的な説教をすぐに聞き入れてしまう創作的に都合のいい子供の虚構を描きたいのか、わからない
  • 道枝くんとお似合いの年齢になりたい人生だった(マイナスポイント?)

 

 

実況中のツイート

松下奈緒ももちろん綺麗。

この時点では「あれが先生」とは知らないはずなので普通もう少し止めるのでは…。あんな格好の人間がガタガタ入ってきていたら驚いている場合ではない。「すいませんが…」って押さえるくらいのパフォーマンスは(脚本で)させた方がいい気がする…。生徒たちが引いていくのを見ている場合ではない。どう考えてもこの人が「新しい先生」だとわかっているが「こんな格好で来るとは思っていなかった」ときの反応である。(登場人物の知っている物事と視聴者の知っている物事を切り分けて)客観視できない脚本家なのかな…。

ただのやばいおじさんじゃないぞ!

この理論は草

「教員になりたくてなったのか」と思うくらいの「教員らしからぬ」キャラがめっちゃ良い。ギャグ漫画に一人はいる。(教員とか、「管理者」側にいる、管理者らしくないキャラ好き。)

偏見と戦うのかと思ったらこいつも偏見まみれかよ。

娘いるの?

のぼったのかな。

いやホルモン剤とかかもしれないけど。

どうやら永瀬廉くんが道枝くんの幼馴染の女の子を邪魔しようとした模様。

自分の身内だと許せないダブルスタンダードに突っ込む展開か。

 

 

文句というより言いがかり

※以下、高校生にとって身近な「学校」「教師」「いじめ」などを通して「知らなかったことを知ってもらいたい」「関心を持つきっかけにしてもらいたい」程度のドラマに、「ここまで考えるドラマではないよね?」とツッコミたくなるほどのケチを延々とつけ続けている頭のおかしい記事のため、ご了承ください。

 

当初見る予定がなかった。

ジェンダーの話題で取り上げられる者に説教させるドラマ」の予感がしたから。

説教させることによって、「子供の既存の価値観をぶち壊し、革命的な価値観を与える」ドラマになると思ったから。

(LGBT当事者の価値観・行動が奇想天外だという決めつけと、そういう人の価値観を目の当たりにして既存の(固有の)価値観を手放して説教した人の価値観に近づくことが良いという安直な「脚本家の価値観」が気持ち悪いから。)

それはnot for meだから。

文句言いながら見るのも嫌だから、嵐にしやがれが終わったらお風呂に入るつもりであった。

 

しかし、キャスト発表。

「母になる」から注目していた道枝くんが出る。

うそ無理見る…。

という安直さで「見る」に舵を切ることとなった。

 

しかし実際第1話を見ると…脚本が合わない。

顔さえ良ければ気楽に楽しめる、全てに目を瞑ることができると思ったが、思ったよりしんどかった。

以下、私に合わない理由を述べているに過ぎないため、「説教で改心する学園もの大好き!」な人は読まない方が良い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  • 脚本家の見えざる手が見えている

3年A組といい、どうして脚本家は、切羽詰まった場面になれば子供に大人の説教が響くと思ってしまうのか。

いや、響くことももちろんある。

先生に言われたからと、言葉が「心」に響いた上に「行動」も変わることも当然ありえる。

でも、「都合よく動かしたい」と考えている大人が変わって欲しい方向を見つめながら考えるような綺麗事だけでそんなに都合よく動いてくれるわけがない。どんな言葉も屁理屈で返してしまいたくなる年頃に。

「この言葉で響いて行動が変わる様を書きたい!」という名作ドラマももちろんある。それが悪いわけでは全くない。

でも必然性や納得感がないと脚本家の見えざるはずの手が丸見えになる。

「信頼関係もないのにそんな言葉ですぐに信じるか?」「立ち直るには本当は心の中であと2段階くらい経ないといけないのではないか?」「飛躍したな?今その手で駒をいきなりゴールに運んだな?」など…。

自然な流れの中で(必然性をもって)「行動の変化」まで持っていくことは難しいと思う。どんな言葉で心が変わるかは人それぞれで、その人の生まれてから今日までの人生によるだろう。

でも、昨日今日出会ったばかりの教師の言葉で飛び降りられるか?

「この先生が言うことなら間違い無いだろう」と思えるだけの土台があるか?それとも「ゲイの先生なのに良いこと言うじゃん」?

物語を、求める結末に持っていくための都合のいい変化が説教された側の登場人物の行動に表れてしまう。

結論を急ぐあまり、途中経過とうまく結びつかない。いつのまにか飛躍してしまう。本来はショートカットができないはずなのに。

「こういうことで悩んでいる人に、こういう言葉が響いてほしい」という理想自体は物語を描く上で正しいと思う。

フィクションとは関係のない現実の話をするが、例えば誰かの相談に乗るときに、「このアドバイスこの人がスッキリしてくれたらいいな!」ではなく、「このアドバイススッキリしてくれたなんて嬉しい!」となると、その人が救われた結果よりその要因が自分の言葉であったということが達成感・満足感になってしまう。

正直私自身、こういうことがよくある。

だから、それが透けて見える脚本が嫌なのだと思う。解決までの納得感・必然性のないドラマはそれが見えてしまう。「響く」展開が「響いて欲しい」という発言者の欲求を満たすだけに見える。

響くのは自分の言葉であって欲しいというエゴ。自分の選んだこの言葉は他人にクリティカルヒットしてくれるという傲慢さ。ある種のナルシズム。プライドが高くて格好つけている。

ドラマでは、経緯も結果も全部見えるため、現実よりも納得感・必然性が必要になるのに、この言葉で解決するだろうと作り手が思い込んでしまうと視聴者からは唐突な解決に見えてしまう。

全ては脚本家の手によるものだが、見えざる手が見えない、気にならない脚本も山ほどあるのに。

 

  • 虚構を描けばいいのに

上の項目で、「ただのドラマに何を言っているんだ」と思った人もいるだろう。ここまで読んでいる人がいるかはわからないが。

その通りである。

ただ、個人的に、生徒の描き方を「リアル」に近づけたいのであれば、解決までの道順は「リアル」もしくは「ぶっ飛びすぎ」にしてほしい。

それができないなら生徒は非現実的にしてほしい。

「ぶっ飛びすぎ」というのは、(すぐに例が出てこないが)、悩んでいる生徒におっぱいを触らせて解決するとか、お金で解決するとか、蹴飛ばして解決するとか…。これは極端か。

もしくは、子供達の反抗の有り様が非現実的なら、ふわっとした説教で言うことを聞いても「言うことを聞かせた!かっこいい!」とエンターテイメントとして楽しめる。

でも、生徒たちが現実に存在する若者「にしようとしている」から上の項目のような点が気になってしまう。

生徒たちをリアルに近づけるのは、おそらく「君たちもこういうことで悩んでいるよね?」と感情移入してもらうためだと思うのだが、「リアル」の者にその説教が響くのか?正論なら伝わるのか?

お前らの将来を思っている、勉強はお前らを豊かにする!という正論が響くなら全員天才になる。でもそうじゃない。

だから、最初から最後まで架空なら良かった。

でも生徒の描写を現代風に設定したのなら、言葉が響くかどうかだけがリアリティがなく浮いている。

そんな言葉響きそうにない子供たち(現実の子供達)が相手のように見えるのに、安直な言葉がすぐに響く。

しかも驚いたのは、脚本家がまだ20代半ば。

50代の脚本家が今時の若者がどんな言葉で動くのかを考えて書いたのだと思った。驚いた。

絶対に絶対に、普段見ないYouTubeに流行りを探しに行ったり、ネットの記事の「マジ卍が大流行!」を鵜呑みにしたりしているのだと思ったら、比較的高校生に近い世代の人だった…。

20代半ばでも、こんな理想論で言葉が伝わると思っているんだな…と驚いた。

本当に25歳の価値観なのか?これが?25歳が見てきた世界なのか?本当に?あなただったら信頼関係のない先生の言葉で屋上から飛び降りることができるのか?10年程度前のことを想像もできなかったのか?

上に命じられて書かされているのか?

 

  • 古すぎるLGBTのイメージとゲイの言うことは正しいという盲信

1番のモヤポイント。

まず、納得したツイッターの意見。

松下奈緒に「あんたモテないでしょ」と決めつけるのもまた偏見なので、LGBTを馬鹿にする生徒の価値観を壊すと共に、自分の中の偏見にも気づかされる話かと思ったら、そんなことはなかった。

「たしかに…私の中にも偏見があった。」という寄り添いが一切ない。

ということはこの一介のゲイの価値観は疑いようもなく正しく、この人本人は生徒から学ばされることもなく、価値観を揺るがされることもないのだろうか。

この人の価値観だけが正しい(この人の価値観は脚本で揺るがす必要もなく正しい)と考えているように見えた。

要するに、この脚本家、オネエの言うことは正しいと思っているように見える。

以前、行列のできる法律相談所のオネエ特集で、所謂「オネエ」が、経営しているお店で「男の気持ちも女の気持ちもわかるだろうからそういう視点のアドバイスを求められる」が、「むしろどちらの気持ちもわからない」と困っていた。

このドラマも、ゲイバーに行けば人生の正しい指標が見える、ゲイバーの「オネエ」は正しいアドバイスをくれるという偏見に基づいているような気がする。

自分と違う存在なら、アドバイスが聞き入れられる気がするというのは、もう違う存在でしかないと決めつけているようなものであって、正しい知識と認識からは最も程遠い感覚なのではないか。

ゲイバーは真理を突いているという盲信の価値観が伝わってくる。

50歳の脚本家なら理解できる。自分たちが若い頃全く目立たなかった存在であって、あまりにも身近では無いから、書くにあたって表面的に調べたり、知っている目立ったアイコン(マツコデラックスなど)を参考にしたらした結果ああいう極端な表現になったなら納得はする。

(それでもテレビに関わる仕事なら関わることだってあったとは思うが。)

「こういう価値観が求められているから書きました」になってもおかしくない。

でも25歳とは…。

LGBTへの偏見は良くないと言いながら「あんたモテないでしょ」という決めつけをスルーしているのは、オネエの持つ価値観なら偏見でも正しいという盲信なのではないかと思う。

オネエなら価値観をぶち破る面白いことをしてくれそうと一括りにしているのが気持ち悪い。「この価値観が正しい」と決めつけている。オネエだから正しいわけじゃないのに。

オネエの価値観も正しいのではなくこれもまた一つの価値観!尊重しよう!自分と違う価値観も尊重しよう!というドラマが2019年は作られると良いなと思った。

 

LGBTへの認識を高めようとするためにはこの脚本では良くなかったのでは…などと20代半ばの社会人は思うが、実際にドラマを見た「高校生」「中学生」に響くならそれで良い。

私みたいな者は対象ではない。

穿った見方をするひねくれ者に評価される必要はない。

届きたい者に届けば良い。

大人がキャンキャン吠えていたって無視すればよい。

ただ私は、このドラマが先進的だとは思わない。今まで通りの偏見に基づいた脚本だと思う。