つちや(仮)

大体当クールドラマ感想。たまに漫画、たまに旅、たまに雑談。

私の家政夫ナギサさん第3話感想〜「甘えていいよ」で甘えられる人は最初から甘えられる〜

私のことです。

 

前回の感想

 

 

 

主観による評価

★★★★☆

 

病院の先生に誘われて強く断れなかったり、田所に誘われてうまく断れなかったりする、この押しの弱さこそが、あの母親によって育まれたものであり、それゆえに母親からの期待に反発できなくなってしまったんだろうなと察してしまう。

これで「仕事ができる女要素」がなかったら、本命がいてもそれ以外に唇を奪われたり押し倒されたりする隙ありすぎの女主人公になりそうだな…と心配になった(笑)

 

レッテルとこれからの価値観

少々長くなるが、逃げ恥の第7話について星野源が語った言葉を引用する。

「男なのになにやってんだ! 女性から申し込まれたそういう誘いを男がなぜ断るか?」って(中略)平匡なりみくりなりがずーっと苦しんできた「男に生まれたから」っていうレッテル、「女に生まれたから」っていうレッテル。そういうものと全く一緒なんですよね。

(中略)男女を反転するだけで、全然怒る気持ちにならないんです。いままで彼氏がいたことがなくて、そういうこともしたことがない女性に対して「いいですよ、あなたとならしても」って男が言った時に感じる感情って全然違うじゃないですか。怒りじゃない。それで拒否しても、全く怒る気にならない。「それはしょうがないよね」ってなる。

でも、男になっただけで「お前、しっかりしろよ!」ってみんなから言われるっていうことは、それはいかにみんなが男と女というレッテルに縛られているか?っていうことの証明なんですよね。

メイのお母さんは、おじさん"なのに"家政夫をわざわざ選ぶ理由が最初理解できなかった。それは、「おじさんはこんな仕事をしない」というレッテルであり、お母さん自身の先入観だろう。

その一方で、お母さんもまた、「お母さん」というレッテルを貼られて生きてきたんだろう。

お母さんだからご飯が完璧に作れ"なくちゃ"。

お母さんだから掃除ができ"なくちゃ"。

お母さんは、メイの母親である前に「美登里」という1人の女性だ。そのはずだった。でも、専業主婦になって、子供ができて、子供を連れて歩くようになった途端、「お母さん」としての振る舞いをしないことで落第の扱いを受ける。家事が苦手で、夫に料理を「してもらう」美登里さんはいつの間にかどこかへいってしまう。

ナギサさんも同じだろう。掃除ができて片付けができて、料理ができる。それはナギサさんの個性なのに、見た目がおじさんだからというだけで、振る舞いはおじさんでなければならない。

でも、掃除や料理ができないお父さんなら?掃除や料理ができるおばさんなら?

みんな、自分のイメージと変わらない人達に対しては「できる」が当たり前になって、レッテルを貼っていることにすら気づかず鈍感に生きられるんだろう。私だってそうだ。

荒療治かもしれないが、こうして「すべき」を押し付けることの違和感を覚えるには、従来の役割とは逆の物語を描かなければならない。

私たちはまだ、価値観の再構築の途中にいるのだと痛感した。

 

母親なら料理くらいしないとという先入観のないナギサさんはすごいと思った。それと同時に、「らしさ」に捉われない生き方も格好いいと思った。

家事が下手な専業主婦。男なのに家事を仕事にするおじさん。イメージとちぐはぐな生き方をする2人だけれど、ナギサさんが苦しんでいない(ように見える)一方で、お母さんが「母親らしさ」に縛られているのは、好きなことをやっていない今の自分を好きになれないからだろうか。

私、今好きなことをしている。好きな人生を歩んでいる。その満足感はきっと、なによりも自己肯定感を高める。

好きなことをできなかったお母さんが、ナギサさんのおかげで少しだけ「らしさ」を脱ぎ捨てられたのは良かったと思った。まだ、全てを捨てられたわけじゃないかもしれないけど、美味しいご飯を作れなくても自分はメイのお母さんだと思えたのは一歩前進だと思う。

 

親と子の在り方も親と子の数だけある

お母さんは家事ができない。あまり美味しくないお粥を作るし、子供が倒れたらパニックになって何をしたらいいかわからない。

掃除も料理もできない、お母さんとメイ。世間的に見ればダメな親子だと思う。何もできない、女子力が低い、そんなんじゃダメだよと言われてしまうような。

でも、最後にメイを抱きしめるお母さんを見て、誰かが決めた「いい親子」の枠にはまることに意味なんかないんだと思った。

だって、"親らしさ"も"いいお母さん"も、普通に考えたらナギサさんの方がメイのお母さんより上だ。

だからと言って、お母さんの位置にナギサさんが入れるわけじゃない。メイはお母さんのように優しい誰かにそばにいてほしいのではなく、お母さんに優しくそばにいてほしいのだから。

お母さんらしくなくても、たまに辛いことを言われても、メイにとってお母さんはお母さんしかいない。いい親子じゃなくたって、メイはお母さんにいてほしいし、お母さんもメイが好きなんだ。そこに、世間から「いい」と思われる必要はきっとない。

お母さんもきっと、仕事も家事も両立できる娘が欲しいのではなく、メイに「両立できる大人」になってほしいだけだ。

2人はダメなお母さんとダメな子供だと思う。でも、2人で成長していく親子でいい。成熟した親子だけが存在するのではなく、親と子の在り方も多様なんだと思った。

 

それはそれとして子は親の所有物ではない

どうしても、頑張り屋さんのメイを中心に見ていると、メイに肩入れして、「ひどいお母さんだ」と言ってしまいたくなる。

だって、「一片の悔いなし!」とメイに思ってほしいのではなく、メイが自分の思い通りに行動して初めて自分の悔いが消えると思っているだけじゃん。一片の悔いなし!って思いたいのは、自分じゃん。

お母さん自身も母親というレッテルを貼られ、自分自身「私はお母さんなんだからしっかりしなくちゃ」と呪いを強化してしまったのは、苦しかったと思う。でも、苦しんだから誰かを苦しめても許されるということはない。

子は親の所有物ではないし、親を超えないといけないこともないし、親の夢を代わりにかなえる「2人目の自分」でも、人生をなぞる道具でもない。

特に、お母さんは自分も家事をできなかったのにメイにはそれを押し付けた。家事に専念できる環境にある自分ができなかったのに、仕事と両立しようとしている娘には両立を求める。自分は苦手な家事をしながらでも仕事が出来たのだろうか。

よくない、よくないってわかってるけど、私が母親なら、「お母さんもうまくできなかったけれどこうやって生きてこられたから、あなたもそれくらいでいいんだよ」と言ってあげたいと思ってしまった。

実際に子供を育てて、能力が高くてなんでもできそうな子に成長してしまったら、私もお母さんと同じことをしてしまうかもしれないのに、自分ならこうしてあげるのにという妄想だけはいつも一丁前で恥ずかしいとは思っている。

しかし、人は、自分以外の痛みには鈍感にならざるを得ないんだろうか。自分が傷つかないことを最優先にすると、疎かになるものなのかもしれない。自分は家事と育児に専念して仕事ができなかった(しかも家事も不得意)のに、メイには両立を望む。少し想像力を働かせれば、仕事を頑張ればその分家事に手が回らなくなることだってあるとわかるはずなのに。

 

自立とは依存先を複数持つこと

「できる(能力がある)」なら「するべき(発揮するべき)」などというのは、幻想だ。

やればできるならやらなきゃ、それが能力を持つ者の責任ーーーなんてこともない。

「これくらいできないことではない≠やらないといけない」ということは忘れずにいたい。

あれするだけ。これするだけ。それでも重なればキャパオーバーだよ。「だけ」も数が増えれば「だけ」じゃなくなる。だから、「できる」も、沢山あったって全てこなせるわけじゃない。

それなのに、メイは、すぐに「いけない」と言う。

しっかりしなきゃいけない。結婚しなきゃいけない。甘えてちゃいけない。

「甘えは禁物」という言葉が自分自身を呪っていることにも気づかず、「できる女の称号」を手にする期待に応えようとする。

肩の力を抜くのが下手くそな人はいる。

私はメイのように優秀ではないけれど、肩の力を抜くのは苦手だし、人に相談するのも苦手だ。相談する方が疲れる。そして甘えるのも苦手。相手の中の自分が、どれだけ甘えてきても許せるのか、そのラインがわからない。

だから、メイのような人がいても、肩の力を抜けと無責任には言えない。甘えてもいいんだよという言葉が発信者の思った通りに「甘えるのが苦手な人」に届いているわけではない。でも、単体ならできることも重なれば手が足りなくなることもある。それは自分だけでなく周囲にも迷惑をかけるということは伝えたい。

本当は「迷惑をかけるから」という動機がいいのかはわからないけれど、多分メイのような迷惑をかけられないから・甘えられないから一人でやろうと思う人にとって、逆に周囲に迷惑がかかるというのは、効果が少しはあるような気がしている。

でも本来、メイは自分自身でそういうことが分かっている人だと思う。

冷静になればコスパが良いのは家事代行だとメイもわかるはず。

それを縛っているのが「やればできる」「仕事と家事両立できるようにしておかないと」という期待と義務だった。

自立とは、誰にも依存しないことではなく依存先を複数持つことだと聞いたことがある。

メイも、誰にも依存しないようにと躍起になるのではなく、うまく依存先を増やせるといいなと思う。甘えようとするのがうまくいかないなら、「依存先を増やそうとする」のも一つの方法だろう。同じに見えるかもしれないけれど、甘えるという言葉がうまく取り込めない人もいるから。

 

そういえば、メイが「しっかりしなきゃ」「結婚しなきゃ」という呪縛から抜け出すことが一つの目標なら、このドラマの終わりは恋愛ではないかもしれないなと思った。

 

その他

デキる営業マンなのがよくわかるな〜。しかし優しい男は選ばれないんや…。

 

そしてメイのスマホUQモバイルであることに気づき、笑った。さすが広告塔。

 

ドラマだと仕方ないし、現実も正直こんな感じではあるけど、倒れるまで気付かない、倒れて気付く展開って、変えようがないのかな。

 

疑問点

制作側、一人暮らし女性の現実知ってる?

間取り、やばくない?

映えさせたいのはわかる、わかるが。

 

 

 

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